学問として歴史が位置付けられる為には、案外時間が掛った。それまでも史記はあったが・・・聖書ならば「創世記」にも事実の記述はあるワケで、全くの創作物語というワケでもない。
やはり、学問が学問として分野を確立していくには時間が掛った。そして案外、写真術の発見とタイミングが同じようなモンである、というのはロラン・バルトのコトバの引用なので、ウソかホントかはバルトさんに聞いてね。
というコトは、博物学的手法が編み出されていったコトと写真術の何たるか、は、同じようなモンだ、というコト。ニセフォール・ニエプス(1765-1833フランス)さんが神学校に学びながら聖職者にならず、発明の道に進んだコトによって写真術が生まれたというのも、とても深い意味合いがありそうだ。
いつ、何処で、何を、どうした・・・まあ、5W1Hなんて言い方もあるが、それが記録としての写真にも求められる。画像とともにそうしたデータがあることで、証拠性が高まる。コレは分かりやすい話だと思う・・・つまり標本ね。
とにかく科学的であるというコトは、科学的な手法に基づいているコトが条件なのであって、経験則だけでは科学的とはならない。そうして神秘主義は封印されていく。
前にも書いたと思うのだが、ゴルゴタの丘にテレビ中継が入っていれば、イエスの死の意味は変わってしまっただろう。それは事実として記録され、世界中の人々の記憶に刻まれ・・・そして消費されて薄れていってしまっただろう。報道は科学的手法とは言えないからねぇ。
一方、科学的な手法が確立されていない時に、コトバとお点前によって継承されてきた宗教的な典礼には、若干の変性はジワジワと起こりつつ、事実だったのかどうかも証拠性に乏しいにせよ、信ずる者には強烈なリアリティを与えるというのが伝統継承である。
伝統継承と言ったのは宗教に限らず、造形では素材に支配される以上、その素材が決定的に変質してしまわない限り、その素材の特性に従うしかない。勝手はゆるされない。それを説明するには漆芸は分かりやすい。
漆の特性を無視すれば・・・乾かない。そして使った人がかぶれる。
ワガハイ的には、そういう決定的かつ根幹の問題が脈々と受け継がれているというコトは、伝統的な宗教の中にはある!と理解する。
そう!酒を呑めば酔っ払う・・・というようなシンプルな話し。
現代という時代に妄信はイカン。だが、分からんものは分からんにせよ、教訓として得られるコトバの宝庫である仏典なり聖書について、一度位は紐解いていく時間が得られる方が増えることを、願うんだがねぇ。
どうも、いろいろトラブルを起こす宗教絡みは、それこそ忌み嫌われている感じがある。だが、それもその筈、忌み嫌われるコトこそ、人間という動物の根深い問題だからなぁ。
「仕込壱号・・・」というラベルを眺めながら、やはり壱号という文字に引っ掛かるからイロイロ思いを巡らすことになる。日本の酒の神といえば「松尾大社」。松尾様に捧げる壱号仕込なのか?やっぱり特別な壱号なのでは?
「美山錦」という酒米で醸された酒に共通するのは、物腰の柔らかい香味という印象だ。印象批評は共有し辛い評価で、評論的には好ましくないのかもしれない。だが、美山錦の酒でトゲトゲしい味わいや、エグミの立った酒に出会うコトが極めて稀なコトは、多くの酒呑みの皆さんと共有出来る感想だと思う。
多くの人の賛同を得られやすい「美山錦」の香味・・・そしてこの川西屋酒造店のお仕事「隆」も、この酒蔵の醸し出す酒の香味の中ではマイルド系だろう。
捧げられるマイルドな一杯!
香味に関して、全く問題ございません!
美しい新酒。幸せなひととき。
今季も、美味しいお酒が次々と出来ている。
毎年繰り返される仕込に、ひとつとして同じ瞬間はないだろう。旨酒もまた一期一会。二度と出会えないこの一口の瞬間に立ち会う喜びのために、今日もまた、合いそうなつまみを算段するのである。
残念なのは、いくら美味くてもず~っと呑み続けてはいられないコト。
あれ?なんか裏側に書かれているぞ!
表ラベル「隆」の裏側が見えるように透明瓶が使われていた、というコトなのか?
山北町より愛と希望を込めて 卯
ガラス瓶の歪みを通して、この言葉が見える。それは川西屋酒造店からの愛飲者への言葉であると同時に、やっぱりコロナ禍の中、大変な思いをして醸し続けてきた蔵元・蔵人の皆さんの切実な感情の吐露という祈りにも思える。
有難うという言葉の通り、有るコト自体が難いコトなんである。旨酒を呑めるというこの瞬間に感謝!
松尾様に乾杯!
バッカスさんに乾杯!
イエスの兄貴に乾杯!
気分が実にいい。