Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする男の戯言記録

再び山梨・・・「向嶽寺」塩ノ山の由来

昨日は恵林寺詣?について書いた?が、どうも臨済禅宗)批判になってしまった感がある。だが若い頃から思っていたのだが、特に臨済宗というのは宗教なのだろうか?なんか臨済宗ほど墓が不似合いな寺はないと思う。全ての臨済寺院にそう思うワケではないけれど。

この疑問については、もう10年以上前になるが某坊さんが語られた。

臨済は弔いをやって堕落した・・・」

大昔は弔い・・・葬儀をやらなかったらしい。では何故、葬儀をやるようになったのか?

まあ、そういうコトだよねぇ。ナニがなければ存続出来ないからねぇ。

だが、臨済禅の中にはチャンと大昔から続く豊かさは温存されている。中国臨済と現在の日本の臨済が完全一致するとは思わないが、その流れを遡れば景教ネストリウス派)というキリスト教の一派だからなぁ。

臨済の奥義は主である!」

この言葉は、そういうコトなんだねぇ。さて、仏教とは?キリスト教とは?やっぱりその地の風土や習慣で変容はしていく。だが、根っこの部分は一致しているのだ!ろう?

興味深いコトだと思うし、その差異は大切だと思う。大昔から人間という動物は、理想郷を求める中に思想・宗教も育んできたんだからねぇ??

 

さて、ナニゴトも諸説あるのが古の話。以下のコトも諸説の中のひとつながら興味深かった。

甲州市塩山上於曽の「向嶽寺」にある説明板

県道38号を塩山駅界隈から恵林寺に向って走り出すと、直ぐ右手に立派な寺がチラリと見える。ワガハイも気になっていたんだが、先日は妻が激しくコレに反応を示した。

「なんか、いいお寺があるみたい・・・なんか興味あるなぁ。」

挙げ句には恵林寺にて、

「さっきのお寺の方が良くない?」

というワケで、観光客を全く相手にしていないお寺だが「向嶽寺」に立ち寄った。背景に樹木の紅葉が美しい山を背負い、境内も広く、気高さを感ずる。直感的にコレは修道院的な雰囲気だなぁ・・・と感じた。修行の場なのだろう。

向嶽寺 : 臨済・黄檗 禅の公式サイト (rinnou.net)

ココは「絹本著色達磨図(国宝)」を有する臨済宗のお寺。でも、拝観出来ないから見られない。この国宝は東京国立博物館にある?の??そういう情報もあるからねぇ。寄託・・・ですか?ナルホド、それは安全度が高いわなぁ。

まあ、雰囲気からして観光客お断り!ってな感じなので、静かに控えめに境内の手前部分を見て、それまで。それ以上は無理だからなぁ・・・それで上画像の説明板を読んで終わり。以下、説明板から読みやすいようにお久しぶりの書き起こし。

 

    塩ノ山について

 塩ノ山は塩山市街地の中央に位置する山で、標高五五四・七メートル、塩
山温泉街からの比高一四三メートルを測る。
 名前の由来については諸説あるが、平地にポツリとあるので「四方からみえ
る山‐しほうのやま」からきていると云われている。さらに康暦二年(一三八
〇)抜隊得勝禅師[ばっすいとくしょうぜんじ]向嶽寺[こうがくじ](当時は向嶽庵)を開山した際、「しほのやま」に」「塩
山」の字を充て、音読みである「えんざん」を山号とした。現在、重要文化財
向嶽寺中門に架かる扁額[へんがく]に、抜隊禅師書の「塩山」を見ることができる。
 『古今和歌集』に「志ほの山差出の磯にすむ千鳥君が御代をば八千代とぞな
く」という歌がある。この歌は「賀部[がのぶ]」に含まれ、めでたい歌としてよく知ら
れていた。そのため、宮廷歌人にとって塩ノ山と差出の磯(山梨県)は「桃源
郷」のような理想郷のごとく扱われ、多くの歌人が好んで引用した地形となり
その後の賀部の和歌にたびたび登場することとなった。さらに室町時代になる
と、京から遠く離れたまだ見ぬ理想郷の風景を空想・具現化し、「塩山蒔絵[まきえ]」の
ように美術工芸品の意匠にまで発展した。この意匠では、差出の磯は荒波がた
つ海辺、塩ノ山は海上に突き出す急峻な岩として表現されている。
全山を覆っているアカマツは天然のもので、学術上価値が高いものである。
このアカマツ林をぬってハイキングコースが設けられており、四季折々の風景
を楽しめる場となっている。
     平成十三年九月
                    塩山市教育委員会

注:[ ]内はルビ。]改行は説明板に合わす。

塩山という地名の由来も分かって、実に興味深い内容だった。コレが分かったところで・・・ねぇ?でも、知るとただただ嬉しいんだよなぁ。

 

塩山市は、2005(平成17)年に勝沼町大和町と合併して甲州市となった。