Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする男の戯言記録

Advent(待降節・降臨節)に入って思うコト

この季節には貴重な色味

子供の頃から、この時期の日照の短さに驚き続けている。

短い日照に加えて、ここ数日は天気も良くない。薄暗い昼間では気分が落ち込む人もおられるだろう。そういえば、ドイツの方がこんなコトを言ってた・・・「11月は寒くなる上に曇りがちで気分が塞ぐ」と。

では12月はど~なのか?というと、クリスマスで飾り付けがされて華やぐから、気分は晴れるらしい。日本以上に高緯度なドイツでは、ちょっとした電飾も有り難さが格別なのかもしれない。

日本では、キリスト教信仰とは無関係にクリスマスがお祭り騒ぎになったから、猛烈な電飾を施すところが出て来たりした。このコトをドイツの方は面白がっていた・・・「狂気的で面白い」と。

なるほど「メリークリスマス」、ドンチャン騒ぎ的な意味合いだ。それは日本のクリスマスには相応しいのかもしれない。

まあ、欧米の本家本元でも信仰に飽き飽きした方々が多いから、メリーというコトバの方が都合が良いだろう。だが、信心深い人達の間ではメリーという言い方に「やれやれ・・・」と感じている人はそれなりにおられるかな?

仏作って魂入れず

外見を作り上げても中身がチープだと中途半端だ、という意味だが・・・ソモソモ、中身がしっかりとしていなければ外見も作るコトが出来ないはず。心棒が狂っていたら彫塑は成り立たないっていうのは、造形の基本にも満たない程の大前提だからねぇ。だから外見を観ているだけではなく、その心棒の在り方も観ているからなぁ。

それは、全く彫刻的な教育の機会が得られなかった場合には、享受し辛い鑑賞だろう。こういうのは、結局その道の分野に関わる人たちの間でしか通用しないローカル言語なんであろう。

ナニゴトも少しは勉強しないと見えないモンではある。

(表面を滑った解釈では、時に狂気的に見える?)

 

だが、ナニゴトも応用は利く。ちょっとした切っ掛けがあれば、異分野の問題も自分の領域と重ね合わせて見当がつくコトもある。所詮、人間という動物の仕業なので、どの様な分野であろうと似たり寄ったりに帰結するわなぁ。

 

仏作って魂入れず・・・コレって偶像崇拝にも通ずるな。偶像ソノモノを否定したところで偶像崇拝に潜む問題が解決しているワケじゃない。

まあ、ワガハイ的にはカトリック教会の聖堂に入ると賑やかだなぁ・・・と思うし(天台・真言宗も)、それは楽しい・・・でも時に煩く感じるケドね。かつて自力で聖書を読むコトが困難だった時代の絵解きの名残ではあろうが・・・文章ではなく、図像を共有するっていうのも、ある意味ではコトバの共有ではあるだろうから・・・そうして教会の統治能力が保たれていた・・・と。

偶像崇拝の否定・・・否定だから偶像を排除すればよい。それ以上でも以下でもなく、何らかの解釈を持ち込むと面倒なコトになる・・・というのは教会政治を安定させるための司祭的方便だろう。だが、個人の信仰は自由だ。

仏像を拝んでいるのか・・・ではその仏像とはナニか?

伝統的な宗教には酷い歴史も刻まれている。そして新興宗教は似たような過ちを新たに刻んでいる。ソレを見るに、かつて行われた過ちの再来として咀嚼可能なのは、歴史を振り返るコトが出来る条件が必要。

宗教は記憶装置でもあった・・・

記憶装置に保存されたデータも、活用(アクティブ化)されなければ死蔵の運命だよなぁ。

 

習慣化した祈りではなく、学び!・・・キリルさんよぉ、アンタ、ナニしてんだろうなぁ・・・思考停止しているんじゃね?

エスさんの困った顔が浮かんでくるんだがなぁ。

 

※ 以下の記述も思い出される

しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」ルカによる福音書 06章49節(新共同訳)