昨日のブログのやや続き、になる。
上画像は、日本標準時を表示することを拒むクオーツ壁掛け時計の裏側の画像だ。
「DM-8810-1 SHONTEK」という文字が見える。「 」内をそのまま検索にかけると、ひとつの企業に行き当たる。1981年創業で、そこに示された住所をそのままグーグルマップにコピペすると検索出来ない企業だ。深追いはしても仕方ないので、そこまで。
近隣のどこかの国の標準時を頑なに示そうとしているワケでもない、この壁掛け時計は・・・そもそも一日を短くしているのか、長くしているのかもわからない。まあ、しっかりと観察すれば分かるけれど、面倒だからしないし、それほど暇でもない。
だが、地球ではない、どこかの星の時間を刻んでいるというならば、それはそれだ。最近は人間という動物も宇宙へ進出していくから、その先駆けとも言える画期的な時計なのかもしれない。
振り子の時計だったなら、振り子の調整をしないと高緯度地域とは時計の進み方は変わるだろうが・・・クオーツだからねぇ。スウェーデンでデザインされようと中国で生産されようと、関係ないと思うのだが?
昨日は捨てようと考えていた時計だが、異国の地の感性で作られた製品だけに、ワガハイの理解を超えた何かがあるのかもしれない・・・と考え始めてしまった。
それは、深追いし過ぎなんだろうが・・・他者の考え方は尊重した方がイイ。利便性を考えなければ、この時計は既にアートの領域に突入しているのかもしれない・・・それが予め意図されたものだったならば。
現実の流れとズレていく時計・・・求められる機能を全うせず、期待に応えるコトもなく独自の時間ではない時間を刻んでいく・・・正確さを装いながら、どこかで人を欺く・・・こういう捻くれた表現というのは、東京都の清澄白河の方にある美術館で沢山出会うコトが出来るからなぁ。
考えようによっては、充分に美術館の収蔵庫に入る価値のありそうな時計?かもしれない。
お宝か?
ガラクタか?
それは紙一重の世界だからなぁ・・・。
明らかに針がグルグル回っていたならば、それはもう時計として機能していないコトが明らかなので、暴力性はない。気付かないうちにしっかりと狂っているという時計は、特にこの時計の狂い加減というのは、感覚に打撃を与える加減だ。
絶妙な狂い加減・・・これが表現のひとつの在り方を示している、とも思える。
国葬批判「国民の声とかなりずれている」…茂木幹事長、野党に反論(読売新聞オンライン 2022/07/20 見出し)
国葬の件は、「・・・かなりずれている」というコトらしいので、これはアートではない!というコトだな。絶妙なズレではないってぇコトだからなぁ。
言い換えれば「・・・かなり狂っている」?
〈茂木氏は・・・11~15日の党本部に設置した献花台に1万8000人が訪れたことを明かした〉らしいが、それが国葬を行う考え方の支えになるというのだろうか?それは公正な選挙での数字ではない。自由意志での献花の数に、なんの根拠があるのだろうか?とても不思議な話だ。
これは考え方の相違なんだろうか?欲望の相違なんだろうか?
焼肉を食べたい人間と、鯵の干物を食べたい人間が平和に同席するにはどうしたらイイんだろう?
いや、まて!
洗練されたフレンチを食べたい人間と、クサヤを食べたい人間が平和に同席するにはどうしたらイイんだろう?
ま、永田町でクサヤを焼こうと、シュールストレミングを開けようと、ソレより臭う不思議な世界を理解するのは厳しい。人間という動物は相当に臭うものよなぁ。
地球温暖化の脅威っていうのは、宇宙人が攻めてきたような危機と似たようなもんだ。人類共通の脅威が実感出来る昨今の状況下で、結局のところな~んも変わらない人間であった。共通の敵に向って合意して対応していくコトはないみたい。本当にUFOに乗った宇宙人が現われて、攻撃を仕掛けてきたとしても・・・多分、宇宙人に賄賂など渡し、裏工作をしてコチラの情報を渡したりと、そういう人間模様が繰り広げられるだけだろう。
SFの描く世界観は美しすぎる。不条理は人間の十八番だねぇ。