火鉢に水をはって睡蓮など楽しみ、そこに金魚など入れて涼を楽しみ、やはり日本に生まれ育っているからには風流というモンを味わいたいよなぁ。
風流・・・コレ、欧米人には分かんねぇんじゃね?
ザックリ英訳では・・・elegance、elegant、tasteful、refinedとかいう単語が出てくるんだが、こりゃあ全然ダメだな。まあ、ピッタリと該当するコトバが無いというコトはママあるがねぇ・・・
だが、日本文化の独自性はグローバル社会では通用しない。それはミステリーとして片付けられてしまう。共有出来ない物事を持ち込まれると、仕事が停滞してしまうからねぇ。
観光立国というのは果たしてコレからもイイ方向に進んでいくのか微妙だが、日本ならではの魅力(ウリ)としては、やっぱり理解し難いミステリアスな要素っていうのが大事かも。旅の魅力って、やっぱり何処か虚構性ってあるんじゃない?と、ワガハイ的には思う。この辺りがサプライチェーンのコトとは異なってくるよなぁ。
最近の鎌倉とか、まあ京都もだが・・・怪しさが無くなったからなぁ・・・ポリポリ。つまんねぇよなぁ。整える程、何処も同じになってくる。寝ぼけて目覚めると、何処の駅なのか分からない都市近郊私鉄駅や、開発時期が同じ頃の新興住宅街みたいなもんだ。
だから、ローカル線の方が魅力的だとか、全く新しい建物を作るよりもリノベーションの方が面白いとか、そ~ゆ~嗜好になってくるってぇヤツなんじゃない?
ま、食に関してなら京料理よりも加賀料理、卓袱料理の方がワガハイ的には興味深いんだが・・・これからはど~なるか分からん。京都に行きたいとは思わんが、金沢や能登はまた行きたいと思うんだなぁ・・・。
さて・・・
我家の庭にどの様な経緯でやって来たのは忘れたが、妻の友人がお土産に持ってきてくれた一株が始まりだったような気もする。環境が適合したのかヤブコウジはガンガン増殖を続けていて、庭の中心部まで進出しようとしている。適宜間引かないと埋め尽くされてしまいそうだ。
上画像のヤブコウジは、睡蓮&金魚元火鉢のすぐ脇に進出したものだ。園芸を趣味としている方ならお分かりと思うが、一度使った土に堆肥や腐葉土など混ぜて休ませ、再生するために寝かせているワケだ。これらヤブコウジは、その土置き場に安住の地を求めて居座ってしまった。お陰でこの土は再利用が出来なくなった(植替えるのもめんどうだしねぇ)。
ああ、我家の小さな庭でさえ、自分の自由にはならない。植物たちの状況を見ながら合わせていくコトになってしまう。無理矢理コチラのエゴを押しつけても、植物たちは枯れてしまったりする。
やはり、自主的に進出してきた個体っていうのは強いし、繁栄するみたいだ。個体の自主性を尊重するコトは、強い個体を育てるのに大切なコトだ!ということが、少なくともヤブコウジでは証明されたような気がする(人を育てるのもそういうコトかもねぇ)。
そして、よく見ると小さな花が咲いている。地味だ。オマケに下向きに咲いているので、全貌を見るコトが難しい。
山橘(ヤマタチバナ)の名で「万葉集」に詠まれたヤブコウジは、江戸時代にはいろいろな品種が作られたという。園芸が一大ブームだった江戸時代のことだ。朝顔は、その代表的な花だけど(国立歴史民俗博物館の朝顔は面白いよねぇ・・・以下リンク先)。
で、明治時代にはヤブコウジの再ブームがあって・・・新潟に始まり全国に広まったらしく、投機対象にまでなったらしい。
そんなの、今では考えられる?
この画像見て、投機対象になるような花に見える?
バラみたいな艶やかな花じゃないからねぇ。
このように、時代の感性っていうのは移り変わるんだなぁ・・・ヤブコウジって、やっぱり渋い趣味だと思うんだが・・・江戸や明治の感性って、今から思えば圧倒的に渋いんだなぁ。
モノが良いと、現在の価格で1000万円程の高値が付くコトもあったらしいヤブコウジ・・・ナンということか!我家の庭では、いったい幾ら分のヤブコウジがあるというのか?
ま、ナニゴトも貨幣価値に置き換えて判断するモンでもないけどねぇ。
やがて赤い実が付くんだが、その姿こそヤブコウジに求めるモノなんだが・・・これ、ヒヨドリが全部、あっという間に食い尽くす。ヤブコウジの実を眺めつつ風流を味わう時間なんて、実現したコトがない。
なんかねぇ・・・ヒヨドリの為に餌の栽培を行っているワガハイだな。
ワガハイ・・・ヒヨドリの僕か?