Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする男の戯言記録

コウヤボウキ・・・「神奈川県立いせはら塔の山緑地公園」散策しつつ思う

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コウヤボウキ [Pertya scandens] キク科コウヤボウキ属

昔、高野山では空海弘法大師)の教えで竹は植えられなかったという。そこでホウキをコウヤボウキという植物で作ったらしい。

箒・・・最近はあまり使われなくなったなぁ。ダイソン買おうとするからな。知り合いの奥様もダイソン買ったって大喜びしてたっけなぁ・・・義母も日立を下取りにしてダイソンにして大喜びしてたなぁ。我家の掃除機は日立だけどね。

 

ワガハイの子供の頃、竹っていうのはドンドン増えるから、庭に植えるとやがて縁の下から生えてきて床を突き破る・・・なんて言われた。まあ、突然和室の畳を突き上げてニョキニョキと竹が生えてきたら、景色としては面白いケドねぇ・・・一本位ならば。弘法大師が竹植えるな、って言ったのも、伽藍を壊すという理由だったのだろうか?そのあたりは調べてないのでワカランがね。

 

竹にはいろいろ思い出がある。概ね昭和50年代だったと思うが、知人宅の庭に隣の家から竹が侵入してきて、急激に増殖し出したと聞いた。それで出来ればタケノコ狩りに来て、片っ端から掘ってくれないかと言われた。ワガハイはタケノコが好きだから、タケノコを掘ったコトなど無かったのだが、お手伝いに出かけた。

タケノコ名人は、鍬など使ってスマートに掘っているのをテレビなどで見ていたが、知人宅の現場は、栽培管理された竹林ではなかったので、地下茎は錯綜し、他の様々な植物も入り交じっていて、サクッと綺麗に掘れるような状況ではなかった。

「竹林になってくると、どうせ他の植物も育たなくなるから、邪魔だったら植栽は抜いていいよ」

と、その家のオヤジさんには言われたが、ワガハイ的には椿は勿体なかったので移植した。

とにかくスコップでタケノコを片っ端から掘った。まあ、20本も掘ればコツを掴んで、無駄に大きな穴を掘ることも無く、割とサクサク掘り当てることが出来るようになった。あれはねぇ・・・先ず掘り始める前に地下茎の位置の見当を付けるコトが秘訣だな。そして地下茎からタケノコの生える位置を推定して、その場所にスコップを一発グサリと差し込む・・・するとスルリとタケノコが収穫出来る。

まあ、50本も掘れば相当に成功率が高くなる。こうなってくるとガンガン掘れる。友人と二人で100本以上掘って、掘り上げたタケノコは、そこのご主人が近所にお裾分けに走り回っていた。

ワガハイは、その知人宅まで電車で行っていたから、帰宅するときに頂いた大量のタケノコを運ぶことが出来ず、結局そのご主人にクルマで家まで送ってもらった。自宅庭に竹林があるなんて素晴らしいと思うものだが、ドンドンと家屋に向って迫ってくる竹の姿っていうのは、チョットした恐怖感はあるかもしれない。

 

そんな困ったコトもある竹林だが、地下茎が張り巡らされるから地面がしっかりとして地震に強い、なんて言われた。ホントかウソか知らんが、そういうコトが言われていた。地震が来たら竹藪に逃げろ!って祖父母達は言っていた。

問題は、本震で揺れまくっている時に逃げるもナニも無いだろう?というコトだ。たまたま竹林に居たらラッキーというコトだろうか。子供の頃、祖父に尋ねたなぁ・・・

「おじいちゃんは、関東大震災の時に竹藪に逃げたの?」

祖父曰く・・・

「近くに竹藪はなかった・・・」

正確な罹災場所は忘れたが、都内下町の何処かで罹災している筈だ。だから祖父の話は地震の揺れよりも火事から逃げるコトばかりだった。その後、祖父は横浜大空襲で建てて間もない家を失うコトになるんだが。そんなワケで、祖父は火事の話が多かった。火の元注意ってうるさかった。そのクセ、煙草の火で着物の裾をしばしば焦がしていたがねぇ。矛盾してるよなぁ。

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コウヤボウキの冬姿

コウヤボウキ・・・地味な植物だ。好きな植物を聞かれて「コウヤボウキ」と答えたら、相当に渋い趣味に思われるだろう。「コウゾ」って答えるのとどちらが渋いだろうか?知名度から言えば「コウゾ」の方が名前は知られているだろうな。

低山を散策していて、植物に詳しいか、余程この植物に興味が無い限りは見過ごしてしまうだろう。ワガハイもふと妙な植物があるなぁ・・・と思って立ち止まった所に名札がなかったら、それがコウヤボウキとは分からなかった。事実、「これがコウヤボウキか!」と言葉をもらしてしまった。それでシゲジゲと眺めてイイ時間を過ごすことが出来た。

 

しかし・・・別に、名前が分かったからといって、その植物のナニが分かったというワケでもないんだがね。でも人は名前を知り、覚えることで学んだと思うもんだ。

オミクロン株って最近つけられた名前を語るコトで、分かったような顔してこんなコトを相変わらず言い続けている・・・「オミクロン株の特性にあった対策・・・」。

基礎疾患の悪化が主因だとしても、コロナ罹患で高齢者の死者が増加しているのは、初手でオミクロン株の特性をなめてかかっていたからだろう。対策は常に後手後手にまわる。以前、ワガハイは書いたが・・・水虫でも蔓延すれば世の中は動かなくなるかもしれないのである。たとえ病は軽くても蔓延させてはマズイのである。

そして数値を見てばかりいても、妙な判断に陥るものだ。死亡率で判断していれば死者は増えているという深刻な事態さえ、軽視してしまうように思える。死者の実数は積み重なっている。それは死体が積み上がっているということだ!国会議事堂前に、総理官邸前に、県庁舎前に棺桶が積まれているという感覚が、その量塊が読めないのだろう。

結局、政治家は死体を扱わない。死者数という数字を見ている。死体に接するのは一体誰だと認識されているのだろうか?そういう疲弊も積み重なっているのではなかろうか?別に養老孟司さんが唯脳論で「九相詩絵巻」を例にしていたようなコトを言いたいワケではないが。

 

弘法大師なら、この状況をどの様に導こうとするのだろう。現代では、祈り拝む信仰では多くの人々を救えそうにないからな。

 

本日の画像は、「神奈川県立いせはら塔の山緑地公園」で撮影した。これから数日間はここで撮影した画像を使いながらウダウダ書くと思う。伊勢原市秦野市の境には弘法山もあってハイキングコースになっているし、弘法大師の縁というのが多いな。

一応2500字を超えたので、本日はここまで。また明日。