Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする四捨五入して還暦男の、適当な言語の羅列記録・自称乱学者

誤読と曲解?まあ楽しければイイんじゃない?

哲学書っていうヤツは、取っつきにくいシロモノだ。普通は敬遠する人が多いように思う。また、東洋思想と西欧思想では当然ながらベースが異なるので表現が変わってしまう。だがしかし・・・所詮は人間という動物の脳ミソが生み出した世界である。これぞ大同小異(昨日の話にも出たねぇ)と思える。

哲学と並んで宗教というのも、あまり語らない方が無難とされる。まあ、政治に関しても酒が入って語り始めれば喧嘩のモトにもなる。結局、生き方や考え方・・・信条に関わるものには深入りしないというのが賢明な生き方、と言われたもんだ。

だが、決してワガハイは不真面目に読んでいるワケではない筈なんだが、いろいろ引っ掛かってしまうんですなぁ・・・この本。

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この本も結構なパロディーですねぇ・・・

まあそういうコトで・・・「将来の哲学の根本命題」という本から、実にクダラナイ話に持っていこうと思いますな。この本はフォイエルバッハという人の著作で、松村一人・和田楽という方々が訳されて岩波文庫になっている。一冊600円の書物である。表紙カバーには以下の説明文がある。

「神学の秘密は人間学である」として、自然を基礎とする人間の見地に立つ”人間学”の根本思想を確立した時期に書かれた代表的論文・・・

というコトである。だから分かるよねぇ・・・神学批判があってこその話なんで、神学と哲学は敵対し合っているように見えて、案外仲良しなんである。

この本の記述には、そのディテールに関して幾つものツッコミ箇所があって、ワガハイの文庫本には付箋がやたらに多くなっている。その中のひとつをネタにしてみようと思う。

感覚においてのみ、愛においてのみ、「このもの」――この人、この事物――すなわち個別的なものは、絶対的価値をもち、有限なものは無限なものである。ここに、そしてここにのみ、愛の無限の深さと神性と真理があるのである。愛においてのみ、髪の毛を数える神は真理であり実在である。キリスト教の神は、それ自身、たんに人間的な愛からの一つの抽象にすぎず、たんにその似姿にすぎない・・・

将来の哲学の根本命題 他二篇 フォイエルバッハ 著 松村一人・和田楽 訳 岩波文庫

※ アンダーライン部は傍点だが、表記出来ないのでアンダーラインとした。

※ 太字部分は本日のテーマだ。

さて、髪の毛を数える神・・・って何だ?

聖書での該当箇所は、ザックリとおそらく以下の記述である。

 

また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。マタイによる福音書 5章 36節
あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。マタイによる福音書 10章 30節

新共同訳

神に誓ったコトは必ず果たせ、と昔の人は言ったもんだ。だから一切誓いを立てるな、天は神の玉座であり、地は神の足台、エルサレムは大王の都であるから、そこにかけて誓ってはならない、と私(イエス)が言ったわけだ。

まあ、これ自体が既にちんぷんかんぷんになってしまうかもしれない。だが、玉座や足台、まして都に誓ってナンになろう。これが偶像崇拝とはナンゾや?ということに繋がりそう。これ、旧体制への痛烈な批判が含まれていますな。

そしてそれは〈38あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。39しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。(マタイによる福音書 5章)〉という有名な箇所に繋がっていく。この右の頬に加えて左の頬を出すというのは、相手の頬を平手打ちする場合を想像してみれば分かると思うんだが、相手の右頬は、自分の左手を使って平手打ちが出来る。その左手を使って相手の左頬を打とうとすると裏拳になってしまう・・・もう分かるよねぇ、右手で打たせようとしてるワケだ。これ、右手でそ~ゆ~コトしちゃイカン!って習慣があるんだな。だから仕返しという方法ではない抵抗ですな。まあ、この辺りはもっと詳しいコト書いている人もいるみたいだから、そちらに譲りますがな。

 

でもまあ、そんなまともな聖書解釈を書こうと思っているワケじゃない。ワガハイにとって重要なのは、のことを語るのにの例えがあるというコトだな。だからねぇ・・・に誓っちゃイケンのよ!。〈髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない・・・〉んだからねぇ。

そしてここで重要なコトに気付くはずだ。ワガハイだったらこのような言葉を使うはずだ・・・「髪の毛一本すら、あなたは生えるも抜け落ちるも自由に出来ない・・・」。つまり、禿げに禿げと面と向って言えるのは禿げだけの特権であるから、イエスさんは禿げではなかった(少なくとも抜け毛に悩む男ではなかった)・・・ゆえに、さすがに禿げ(あるいは抜け毛)という表現を使うコトが出来ずに白くも黒くもできない、としたんだろう。

間違いない!イエスさんは立派なカッコイイ髪型をしていた!!これがこの記述から確信出来るのではないだろうか?

 

ナニ?〈あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。〉の説明が抜け落ちているって?コレはねぇ・・・ちょっと怖いですぞ。マタイによる福音書10章26節から読み進めてみると、信仰に無関係な方には受け入れがたい言葉が続くように思いますな。ただ、〈体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな・・・〉という言葉には、相当に矛盾した社会に生きる人間から出て来たんだろう、というリアリティを感ずるけどね。

でもまあ、禿げからすれば〈髪の毛までも一本残らず数える〉必要もなく、一目瞭然である。髪の有る無しは「然り」か「否か」に通ずる。やっぱり禿げの迫力には適わないイエスさんの配慮、優しさを感じますな。

 

さて、フォイエルバッハに戻ると、本日冒頭で引用した先に〈・・・何も愛さない人にとっては、或るものが存在するかしないかは全くどうでもいいことである〉という記述がある。確かに禿げにとっては、あるものが存在するかしないかは、もう・・・どうでもいいことである。

ナルホド・・・神学も哲学も楽しいかもしれないねぇ?「神学の秘密は人間学である」からねぇ・・・ポリポリ