Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする男の戯言記録

寸足らずでも書いておこう・・・新しきは旧き中に隠れ、旧きは新しき中で明かされる

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結局CDで買い直しているPaul Simon

CD全盛期に向う頃、CDプレーヤーの値段が安くなって1985年頃だったか?ヤマハのCD-3というCDプレーヤーが発売されたあたりから、ワガハイも購入しようと思い始めた。

実際に購入したのはヤマハCD-750(1986年)で、定価は8万円半ばだったが、7万円台前半で買えたと記憶している。なかなかいい音のする機種だと思ったんだが寿命は短く、3年程使ったところでローディングがダメになり、修理したが同様の症状を繰り返すので買い換えた。ちょうど山積みでSONY CDP-228ESDがたたき売りされていたのだ。

このSONYのCDプレーヤーはあまり芳しい音ではなかったんだが、頑丈だった。20年程動いていたが、音飛びが酷くなったので捨てた。巷ではソニータイマーとか言われるが、このCDプレーヤーに関しては嫌気がさしても壊れないので使っていた。

最近ではアナログレコードが注目されているみたいだが、全盛期のような機材に恵まれた環境ではない。ターンテーブル、トーンアーム、カートリッジと、かつての常識的なクオリティーのものを買おうとすると、とんでもなく高価で、しかも選択肢が少ない。アナログ機材はベアリングの精度やら、鋳造・鍛造技術、そして仕上げ加工にまで音の違いにハッキリと影響してしまう。それらは匠の世界の仕事である。ならば、もっと日本には高級オーディオメーカーが生き残っていてもおかしくなかったと思うのだが?

 

カメラについても、デジタルカメラが主流になって久しく、いまさらフィルムカメラを作るために図面を起こせる技術者がおられるのだろうか?フィルムの巻き上げ一つとっても、スプロケット周りのバックラッシュであるとか、ナニヤラちゃんと設計した上に加工組立てにもノウハウがありそうだからなぁ・・・チャンとやらぬとコマ間が揃わなかったりする。NIkonF-2を作っていた頃、CanonのF-1はコマ間のバラツキが多くてだらしなかった。そういう領域っていうのがアナログにはあるからなぁ・・・

ま、ミラーレス時代になったから、もうクイック・リターン・ミラーなんて作れなくなりつつアルのでは?ああ、ペンタプリズムも作れなくなるのかもしれない。そうして、いずれはアナログ用の部品がナニを意味するものなのかさえ、分からなくなる時代がやってくるのだろう。

更には、そうした機材によって生み出された画像が、そのような機構からくる制約によって生み出されたモノであることも、読み取ることが困難になってしまうだろう。というか、なりつつあるな。

 

文学や音楽の古典に接するときに、それが創作された頃の時代・風俗をあわせて考えていかないとトンチンカンな鑑賞になってしまうことがある。〈解釈者は、聖書作者が一定の事情の下で、その時代と文化の状態に従って、その時代にもちいられていた文学類型を用いて表現しようと意図し、表現した意味を捜さなければならない。〉※1

例えば、J. S. Bachがあれだけの教会カンタータを書き残したことに関しても、教会典礼のあり方や、当時の失われつつある文化風習を記録しておこうという情熱であろう。また、引き受けざるを得ない才能と環境に恵まれていたのだから、ヤルしかないという事情はあろうな。彼以上の音楽的天才がいたとしても、状況が伴わなければ創造は起らないのだ。

 

しかし、あまりに昔のコトは想像にも及ばないコトもある。ソモソモ、コロナ禍においてもスペイン風邪の時の記録や言い伝えが、あまり生かされていないばかりか、記録そのものも風化してしまっているようだ。我々は一体、過去からナニを学べるというのだろうか?

ただ、言えることは相当に酷い自然災害や人災、悪政が続いても人類は滅亡せずに現在に至っているということだ。その点に関しては楽観的でも大丈夫かもしれない。

ただ、原発やら放射性廃棄物、それ以外にもPCBのような多くの危険な物質があるが、それらの管理が出来なくなってしまうという危機は、ヘタすれば起りかねない。国民の頭数があまりにも少なくなってしまえば、その国の危険物管理は放置されてしまうだろう。食料確保が優先され、インフラ整備は追いつかず、やがて危険物はジワジワとにじみ出し、絶つことのできない悪循環が始まる。それは案外、近々に起こり得るコトだろう。これは楽観出来ないことと思える。

 

エジプト文明メソポタミア文明、それは教科書でも学んだ文明だが、それらは滅びてしまったかのように錯覚している。しかし、それらは今でも継続している。例えば、こういう言い方をする・・・

〈・・・新約は旧約の中に隠れ、旧約は新約の中で明らかにされる・・・〉※2

と、聖書の内容についてキリスト教的には言われたりするのだが、そうした関係に過去と現在、そして未来が繋がっている中で、私達は生活しているというように捉えることも出来る。

そう考えてみると、多くの民意に反して始まった五輪に関しても、非常に異常に記念されるコトになるだろう。間違いなく人類史上に類い希なナニガシかを刻んでいるのである。そういう意味合いにおいては、ワガハイはブラックではあるが大いに感動もしよう。

 

さてと・・・どうしても開会式が火遊びに見えて仕方ない。それは・・・〈儀式は簡素の美を備え、簡単明瞭であり、不必要な重複を避け、信者の理解力に順応し、一般に多くの説明を必要としないものでなければならない。〉※3

〈 〉内は言い換えてみれば良い。「開会式は簡素の美を備え、簡単明瞭であり、不必要な重複を避け、全世界(国民)の信認という理解に順応し、多くの説明(言い訳)を必要としないものでなければならない。」どうであろうか?

 

本日は、「第2バチカン公会議 公文書全集 南山大学監修(1986年初版)」から引用させてもらい、この頃考えていたコトを少しまとめてみた。

あらゆるコトが循環のなかで存在し続けていることを思えば、やがて封じ込めた筈の汚染物質(不祥事)も、あらぬ処から顔を出すだろう。

ということで、ようやく「炭火」についての地均しが出来てきたか?「炭火」についてはまたも先送り、だ。

 

※1 第2バチカン公会議 公文書全集 〈聖書の解釈について〉南山大学監修 p.208(原典は聖アウグスティヌス, De Doctr. Christ, )

※2 第2バチカン公会議 公文書全集 〈旧約聖書新約聖書の一貫性〉南山大学監修 p.209(原典は聖アウグスティヌス, Quaest. in Hept.  )温故知新にもちょっと似ているな。そして大きな文明の間にあって翻弄された小さな国があったワケで、そこに生まれたイエスさんというワケだ。アメリカ合衆国と中国、大国に挟まれた日本や朝鮮半島、そして台湾からフィリピン・・・なんか似てるよねぇ。

※3 第2バチカン公会議 公文書全集 〈儀式の構造〉南山大学監修 p.15