Etsuro1のブログ

関東南部で寝起きする男の戯言記録

安針塚・・・一度は行ってみなぁ~

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神奈川県立塚山公園からの展望 (2016年2月11日)

 

Etsuro1が小学生だった昭和40年代は、学校給食で私語は厳禁だったねぇ。全員白衣着用で、発していい言葉は「いただきます」と「ごちそうさまでした」だけだった。

あとは黙々と食べる。私語を発すると先生に叱られるのだ。最近言われる「黙食」であるな。ということで、給食の時間というのはあまり楽しいものではなかった。手洗いも時々先生のチェックがあって、手抜きで洗っていると叱られた。

それがあるときから、給食の時間は机を移動してグループをつくり、楽しく食べるように指導が変わっていったなぁ・・・ありゃあ、一体なんだったんだろうねぇ?

 

そんな時代に伯母は小学校の教員をしていたのだが、その学校の遠足とやらで「安針塚」に行ってきたという。良いところだから、そのうちEtsuro1を連れて行ってくれるという。しかしながら・・・それは実現することなく伯母は年老いて他界してしまった。ある日、そんなことをふと思い出して、では一人で安針塚にでも行ってみるか、と思い立ったわけだ。

京急線の「安針塚」駅を降りて、適当に南南西の方角の斜面を上っていけば、塚山公園に行き着く。そのテッペンに目指す安針塚はある。途中、坂道は結構な急坂であったりするので、2月であっても汗をかきながら登ることになる。

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安針塚入り口

最後にダメ押しの階段であるな。そしてこんな碑が立っておる。

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階段正面に象徴的に立っておる・・・塚山絶頂っていうんかい?凄いねぇ

「ウ井リアムアダムス夫妻墳墓在於塚山絶頂」

読んでみりゃあ、思わずわぁ~ォ!だねぇ。この日は数組の家族とカップルが、この公園内をウロウロしていましたな。

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しっかし、ワガハイは説明板が好きだねぇ・・・

例によって、看板の内容を書き起こしておくな。

 

史跡の永久保存
1.私達は、ウイリアムアダムス、日本名「三浦按針」とその妻の墓を永久保存するため、西暦1966年

(昭和41年)に塚山公園保存会を設立して以来、清掃奉仕を継続しています。
2.毎年4月には、横須賀市主催の四大国際式典である三浦按針祭が盛大に開催されます。日英両国民の友好の
証しとして、この史跡を大切にしてください。

 

 

保存・・・つまり状態をKeepするってぇのは、ただ作って放置しておればいいという訳ではないからねぇ・・・この清掃奉仕っていうのは、なかなか出来ることではないですぞ。確かに綺麗になってましたな。

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安針塚

逆光ではあったが、なんだか光の中にご夫妻が佇んでおられるようなイイ感じでしたな。安針さんご夫婦は、皆さんに大切にされておりますな。

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安針塚(斜めカット・裏側から見た図ということだな)

節分を過ぎると、太陽の光は強くなってきますな。そして太陽の高度がまだ低いので、モノの影が長く伸びるのが、その光景を劇的なものにしてしまうことがありますな。なんか、この日も一人で感動に浸っていましたな。伯母とともに、ここにやって来ることは出来なかったが、その伯母が見せたかったナニかは、享受出来たのかもしれない、と思いましたな。

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ハイ!また説明板ですな

国指定史跡
三浦安針墓(みうらあんじんはか)
所在地 横須賀市西逸見町三丁目五十七番地
指定面積 一三五二㎡
指定年月日 大正十二年(一九二三年)三月七日

 三浦安針は、本名ウイリアム・アダムスという英国人で、
オランダ東印度会社が東洋に派遣した艦隊の水先案内人で
した。艦隊は航海中に大嵐にあい、慶長五年(一六〇〇年)
安針が乗ったデ・リーフデ号だけが九州に漂着しました。
 安針は砲術や航海・天文学に優れていたため、徳川家
康の信任を得て幕府の外交顧問となり、江戸日本橋に屋
敷、慶長十年(一六〇五年)には三浦郡逸見村に二五〇石を
与えられました。また、安針は造船の知識もあり、伊豆
伊東で西洋帆船を建造しました。
 安針は元和六年(一六二〇年)、平戸で亡くなりましたが、
安針とその妻を弔うため、遺言により知行地の逸見村に
供養塔が建てられました。二基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、凝灰岩(ぎょうかいがん)
の右塔が安針、安山岩(あんざんがん)製の左塔が妻・ゆきのものです。

平成二十年(二〇〇八年)三月十五日
横須賀市教育委員会

 

 

ワガハイが訪ねたのは2016年だったが、このときも花粉が飛散していたからマスク着用で坂道を上りましたな。これ、ちょっと辛かったなぁ・・・でも、あの頃はまだ喘息は発症していなかったんだよなぁ・・・とても今じゃ上れませんな(タクシーで行けるけどね)。

 

明日は、たぶん安針塚からの下り・・・を書くつもりだけどね。気が変わらなければ。