Etsuro1の祖父・祖母から聞いたスペイン風邪のことを書くと、アクセス数はだんだん下がっていく傾向があるような気がするねぇ・・・もっとも、このブログ自体、たいして読まれていないんだがね。
アフィリエイトを全く前提としていないので・・・そんなことしたら努力しなくちゃいけない感じになってくるじゃぁないですか。
今回の新型コロナウイルスでも、似たようなことを書いている人が見受けられるんだが、見えないことの恐さ、っていうのは東日本大震災の時に経験しているよねぇ・・・もっと正確に言うと原発事故のことだ。放射能の恐さというのも、肉眼で見えないという点ではウイルス脅威と似ているとは思うんだが、とりあえず放射線はセンサーで検知出来たよな。でもウイルスはセンサーで感知するという訳にはいかないようだからねぇ。
さてと・・・
山に逃れても、夏の富士登山みたいな混雑になったら、”密”が避けられないね。だから近所で空間のあるところで気分転換と体力維持に留意することになる・・・例えば
秩父・奥多摩や丹沢なんかに空間を求めて移動すると、そのプロセスにおいて危険が伴うということになるんだろうな。
都会では、近所で空間を求めて公園に行っても、田舎の街中以上に”密”になりかねないだろうな。田舎の街は、既にシャッター街だからなぁ・・・感染拡大回避という点では、シャッター街であることは功を奏していると言えるかもしれないねぇ・・・その分、郊外型のショッピングモールに行かなきゃならん訳だが。
このウイルスの脅威が去った時、単に都市に集中していくという今までの考え方と動きを、転換した方がいいだろうね。ウイルス渦が、歴史的に一世紀に一回とするならば、30年計画ぐらいで計画的に地方分散をそこそこやった方がいいだろうね。地方経済の活性といった考え方だけでなく、安全保障(戦争のような非常時)とまあ、これの方が実は安全保障なんだろうが”保健衛生”の観点からも、集中を避けた方がいいと思うな。
人口減少の昨今、このウイルスの為にまた人口減少は起こる訳だし、きっと想像のつかない問題も発生してくるだろうね。でもねぇ・・・辛いが、野原を歩いていると、虫食いだらけの植物とか、風雨に耐えられずに枯れた木々、土に還ろうとしている植物・・・というと強烈な言い方だが・・・つまり堆肥化しはじめているものなんかを見ることが出来るよねぇ・・・大木を注意深く観察すると、様々な危険・事故を受けながら大木の形態に育っていることに気付かされるな。世の中全体が動いている(生きている)以上、無傷ではいられない・・・でも、わざわざ傷を広げる行為は”愚か”だよね。
小さな庭から外に出て、野っ原にあると、大きな循環の中で春を迎えていると実感できるんだが・・・今年は庭で、その時間を過ごすんだな。