気温が上がれば水温も上がる。そうしてメダカさん達にも春が来た。
なんか、とっても元気。無事に越冬されて卵を産み始めているから、毎朝メダカ担当の妻は卵を採集して別の容器に移している。そうしないと、メダカさんは卵を食べてしまうらしい。
卵は食べるは、孵化した幼魚は食べてしまうわ・・・それでよく、絶滅しないモンだと思うけれど、自然界ではそうやって生き残った個体が存続していってバランスがとれるのだろう。
効率は悪いように思うけれど。
だが、ソレで存続出来るならば、それが自然界にとっての全体と部分の関係なのだろう。
全体と部分・・・
これ、本気でデッサンを始めた時に、師匠からこの関係性の話しをしつこく聞かされた。部分的にばかり見ていると、全体が疎かになる。全体ばかり見ていても進まない。常に全体と部分のバランスを考えながら描いていく・・・というような話しだ。非常に掻い摘んだ内容だけど。
それは造形の問題にとどまらず、世の中のあらゆるコトに通ずるケドねぇ。「ディテールに神が宿る」などという言い方もあるけれど・・・ワガハイはそんなトコロに神は宿らないと思うケドねぇ。むしろ、全体と部分の関係性に、ナニガシカの神の意思を感ずるような気がする・・・というコトはあり得るけれど。
以前も書いたと思うけれど、巷ではデッサン力と描写力を混同していると思う。或いは勘違いしている?極論するとヘタクソに見える絵なんだが、デッサン力がある場合もあるのだ。逆のケースもあるけれど。
要するにデッサンって、デザインだから。デザインって設計とか計画とか、そういう意味合いだから。だからモノを作るにあたっての計画性の話しがデッサン力なのだ。
建築現場だったら、工程管理がうまくいっているってぇのが、デッサン力あるねぇ~的な感じだろうか。
ま、大概は専門家の方々でさえ、描写力をデッサン力と言ってしまっているからねぇ。仕方ないけれど・・・そりゃあ、計画力があれば、描写も伴うというコトはあるけれど。
でも絵は・・・こう言ってはナンだが、所詮は絵空ゴトである。どの様に描こうが当人の勝手である。かつては宗教的に制約されることからコードも成立したけれど、現在では神不在の表現だらけなのだから、個人の勝手表現なんである。伝統的な、アカデミックな教育を受けたと言っても、その根幹がすっぽ抜けているのだから、ナニがアカデミズムなのかもゴミのようなもんである。
というワケで、卵も稚魚も食べてしまうメダカさんだが、陽光を浴びて元気いっぱいなのだった。
続いているねぇ・・・
それに比べると人間という動物がやっているコトは、ナンだろうねぇ?もっと酷いコトやり続けているのに、よくもまあ、ここまで存続してきたモンだ。地球もよく、ここまで存続したモンだ。
全体と部分・・・それは集団と個人。或いは国家と個人。世界と一国家。だが、いびつであっても一つの地球上で存続するバランス感覚ってぇのがあるだろう。
あ!ここで”いびつ”って言ってるのはバロックのコトを少々意識している。平均律の微妙な歪み、揺らぎだ。そういうイメージで捉えると、J.S.バッハさんの世界って、均整のほぼ限界点なんだろうなぁ。
上手いコトやり繰りするには(移調の自由さ)、全てが若干の歪みの中にある・・・と。
絵画でも色とカタチ、そして平面という大問題は永遠のテーマ。それをキャンバスの中で試行錯誤している絵描きさんも減った感があるけれど・・・やっぱりクロード・モネさんとアンリ・マチスさんは上手い感じで決めてくれたよなぁ・・・と、改めて思う昨今なのだった。
メダカが泳ぐ、小さな水面を見ていたからか、ねぇ?